欧米におけるベンゾジアゼピンの「終わりの始まり」は1970年代終盤にやってきました。
篤く信頼されてきたリブリウムやヴァリウムが依存につながるかもしれないという可能性が,マスコミによって提起されるようになったのです。
新聞の健康欄で,テレビのトーク番組で,この問題は繰り返し取り上げられました。
そのことで患者は自分が抱えているかもしれない問題を知り,不安と不満を高めていきました。
また一方で,製薬業界自体にも,ベンゾジアゼピンの依存性を喧伝する一派が現れました。
正義感や科学性といった理由からでは恐らくありません。
ベンゾジアゼピンとは全く異なる作用機序をもったセロトニン製作動性の抗不安薬であるブスパー(一般名ブスピロン)を開発していた製薬会社が,旧来の抗不安薬との差別化を図るために,ベンゾジアゼピンの危険な一面としての依存性を強調するというマーケティング戦略をとったのです。
彼らは,ベンゾジアゼピン依存の問題に積極的に取り組む医師や研究者をサポートし,それをテーマとした学会やシンポジウムのスポンサーになりました。
この活動を通じて彼らは,プライマリケア開業医や精神科医たちにベンゾジアゼピンの危険性を「教育」していったのです。
1980年代には通常の服用量で起こるベンゾジアゼピンの「常用量依存」という概念が浸透し,欧米の一般大衆の認識においては,ベンゾジアゼピンは非常に安全な医薬品から一転して,現代社会にとっての最大限の脅威となったのです。
[参考資料]
「抗うつ薬の功罪―SSRI論争と訴訟」,デイヴィッド ヒーリー,みすず書房 (2005/08)